会社からの帰りしな公園での親子風景。鷲、坊ちゃんとキャッチボールって何回したかなぁ。たぶん、両手両足はしていない気がする(苦笑)。ホント、こういう風景は彼の記憶の中には少ない気がするなぁ。
彼とは、言葉のキャッチボールと気持ちのキャッチボールはしているつもりだが。
彼の良いところは、歳なりにちゃんと聞く耳が備わっていること。歳なりに相手の気持ちを読み取る目を持っていること。コレは、素質なのか、こっちがそういう対応をしてきたから身についた性格なのかは判らないが・・・学校でもそうしているのかなぁ。
大人になってのキャッチボール。
意外に多いのは「ボールを投げるだけ」の大人。ボールを多く持っていることを「話題が豊富」という詭弁にすり替えて自己満足。結局は、自分の話しか出来ないから、全てが表面的な話題で流れてゆく。子どもの「キラキラした瞳」がしゃべるならともかく、大人の「しゃべりっぱ」は困ったもん。良くあるシーンは、話し好きのタクシーの運転手さん。ラジオで聞いた話を、さも自分のご意見のごとくのご高説・・・たまに、イミテーションコール機能使うときあり(笑)。
話題の豊富さは、実はコミュニケーションの深さとは関連は無いことをしらないといけないんだよねぇ。
場面を変えて言えば、経験談よりも、仮説談の方が面白い。歳を食ってくると、未来よりも過去の方が大きくなってくるから、どうしても経験談をベースに展開が多くなるんだけど、コレは老醜の1つだろうと自戒している。
ただ、仮説談も・・・哲学、美学、原則のない奴が言うと、単なる「的外れの理想論」か「近視眼的な空想論」になりかねない。
コミュニケーションは、メッセージの交換作業を通じて、何らかの行動や結論に導くために存在をするという価値があるなかで、自分のキャッチボールが何を目指しているのか、もたらすのか考えながらできるのが大人なんだろうな。
まだまだ大人になりきれていないな、鷲。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。