この梅干しは、スッペシャルに酸っぱい。ここまで酸っぱいと、梅干しは身体に良いとか言いつつも、ほんとかね?と疑いたくなる。そんなわけないか。これは、先日の和歌山出張で買ってきた梅干し。一粒で、ドンブリ飯を2杯は食べられる気がする。
さて、
先に、父性、母性という点で考えてみると言ったが、その前に「やさしさ」とは、どんな結果をもたらすモノなのかを考えてみたい。父親であろうが、母親であろうが、友人であろうが、恋人であろうが、夫婦であろうが、一言で括れる「やさしさのもたらす最終目標」とは何か。有るんだと思うがどうだろう。
表現の違いがあるかもしれない。また、形の違いや大きさの違いはあるかもしれないが、最終的には「幸福を与えられる」。これに、「やさしさ」は尽きるのではないかと思う。
幸福とは何か。
幸福(こうふく、Happiness、Happy)とは、欲求が満たされ、不足や不安を感じず、安心している心理的状態のこと。但し、その状態は極めて主観的な状態である。犬は喜ぶ際には尻尾を振るように、ヒトに拠らず、様々な生物にもこれに相当する状態があるとされる。
ここでいう「欲求」とは何か。これは、相手に何かを無意識、意識などの状態に関わらず求めると言うこと。言い直せば、要求される側として幸福な状態を作るためには、相手の土俵、立場、状況の中でで「行動」「言動」を起こさなくてはならないことだと思うのだが。
逆に考えると、自分の状況、立場や主観などで「やさしさを演じる」ことは、残念ながら本質的に「他人へのやさしさ」にはつながらないと言うことだと考えるが、暴論だろうか。
外形的には「荷物を持ってあげる」「作業を手伝ってあげる」「要求を単純に受け入れる」色々な「世間一般で言うやさしさ」があると思うが、これが実際にはやさしさにはつながらない場面や結果が多々あると言うこと。
自分の土俵で、「思いつき」「一般論」「ナルシズム」で、単発的に「やさしさ」らしきモノを提供される方は、たまったモノではないであろうことは想像に難くない。これは、幸福とはかけ離れた状態ではないだろうか。満たされた気持ちとはほど遠いと思う。例え、一時の幸福感をもたらしていたとしていたとしても、すぐに馬脚を現すことにもなるような。
会社、家庭、学校、地域・・・色々な関わりの中で、相手に幸福感をもたらす事が出来る「やさしさ」とはなにか。自分が先か相手からが先に提供すべきか、相手が先に提供すれば「こっちも動く」。こんな議論や感性は不毛の極み。
ここは、それぞれの立場の違いは、平等というようなレベルではないところに必ず存在をする。自分の立場をわきまえれば、どっちがアクションを起こすべきか、もしくはどっちが相手の「土俵」に臨むか、自然と答えは出てくるはずである。総論としては、「お互いに動く」であるが、それが出来ないから関係がこじれる。であれば、どちらかが先にアクションをおこすべきなんだが・・・。
それに気がつかないのも、「徳」の問題なのかもしれない。
まだ続く。
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