同期会の写真を見ながら・・・。友人達の人生模様がどうのこうのではなく、うちの若い衆がこれからどんな人生模様を持つのか、見るのか、作るのか。
人間、誰でも「絶対平等」としてあるのは「生と死」これだけ。あとは、平等も公平も「そうあるべき」であって、残念ながらどこかに「差」があり、結果として「違い」が産まれてしまう。
自業自得という仏教言葉があるが、自分の置かれた立場や、自分を取り巻く状況を振り返ってみると、全ての起点は自分にあるのが判ると思うのだが、どうにも現状が理解できず、納得のいかないことが沢山ある場合、往々にして「人のせい」や「短絡的で近視眼的な発想」になっていることが多い。
今、あるところで話が出ている「稼ぐ人は家の中でえらいのか?」
僕は、エライと思っています。古今東西太古の昔から「狩りを出来る人がエライ」これは、人間生存原則から考えても当然のことだと思います。今の社会に置き換えても一緒でしょう。隣のうちの稼ぎと、自分の家の稼ぎを比べる必要は無いことですので、ここは誤解の無きよう。家の中で「稼ぎの大きい人はエライのか?」と問われれば、私は「エライです」と答えます。 ただし、これは「夫>妻」では無いと思います。こんな事を言い始めたら、それこそ封建時代に逆戻りでしょう。
立場と視点を変えてみれば、生存原則と共に存在するのが、種保存原則。自分の子孫なりを残し、文化と歴史を作るのも大事なこと。その中で母親が居なければ、絶対に子どもは産まれない。という言う麺では、絶対に男はどうひっくり返っても敵わない。この面だけで捉えれば「夫<妻(正確には男<女)」だと断言できます。出産を出来るのは「エライ」です。これだけは、絶対にそう感じる。
専業主婦家庭と共働き家庭。 色々な家庭模様と家庭像があるので、正解はないが、そもそも「エライ」という視点で捉え始めたら、矛盾だらけででしょう。もともと家庭に「誰かがエライ」という概念は無く、あるとすれば「夫婦共々エライ」。
ただし、子どもには「誰がエライのか」というのは植え付けるべき概念です。これは、片方がということではなく、双方で「相手はエライんだよ」ということを植え付け、共同社会での規律の一部分として認識させる必要があり、そして「夫婦としての相互敬愛や尊敬」を感じさせ、理解させることで、健やかな人間性を育む事が出来るのだと思います。
この話はまだ途中。これからも考えます。
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