ミョーに可愛いな。かごに入った、ドコモダケ。
さて、「エライ」と言われる人の人格とは。一般論で見れば「実るほど頭を垂れる稲穂かな」これに尽きるかと。少なくとも、自分の優位点を笠に、相手に対して圧力や対抗をしてくる奴は、「エライ」とは言えないでしょう。エラければエライほど、自分の優位は内に秘めるのが人格の外形かなと。
このへんの「自己優位」を人間関係に「誇示的」に持ち込む奴は話にならない。
ビジネスの世界での交渉事などでは当然アリ(程度と表現方法は考慮の上であるのは言うまでもないので、誤解の無きよう)だと思うが、人間関係に「絶対優位」だろうが、「相対優位」であろうが、それを自らの口から、自らの行動で「示威」するのは最低であろうなと。相手の感情や状況で感じて貰うことであったとしても、自ら誇示し、それを圧力として使ったりしたら、人格としては何を言わんとするかでR。
つうか、まぁそういうことを誇示する奴ほど、実は世間一般的にみると大した事ではなかったりする。家の中で、友人の中で「威張りたい」「見下したい」がための、実にみっともない琴。陰で笑われていることを気がつかない。もしくは、表面はともかく、内面では「うざったがられている」事に気がつかない、哀れな人間。
と、ここまで書いて、我が身はどうかと振り返る。う~ん、人のことを言えるほどの人格は持っていないな。でも、偉そうにしても許される(多少だが)キャラかなとは自負はしているが、ハハハ。
人間関係は、鏡の関係とよく言われる。一方が好意を示せば、もう一方も好意はともかく、イヤな気持ちにはならず、まず悪意を持つことはない。そういう意味では、関係の悪化した人間関係(友人、夫婦、同僚なんでも)は、双方に原因と起因があるはず。これは、絶対原則。
しかし、人間関係の悪化は、双方に問題があるとしたとしても、当然その問題点は「重要度」や「過失度」がことなる。この差が、我慢できなくなると「人間関係は悪化し」「好意が悪意」に変わり、攻撃を始めたり、もしくは殻に閉じこもったり(場合によっては、精神的に壊れることもあるであろう)する。こうなると悪循環。
そうなる前にどうすべきか。
そもそも、人間には二種類のコミュニケーターしか居ないような気もしている「話していると楽しくなるタイプ」そして「話していると苛つくタイプ」。同じ事を話していても、全然違う。表現方法とか、内容レベルとかそういう問題ではなく、どうにも「話していると、これ以上話すのはイヤになり、話を切り上げたくなる」人間が存在する。僕の45年の人生の中では、ホンの数人しか知らない。
一言で括ると、たぶん間違った捉え方かなという気もするが【徳】の無い奴。これで、僕はまとめてしまう。僕の人生の師匠の会社の名前ではないが、まさしくその通り。
では、この「徳」とはなにか。ここに、エライ人の人格要素が詰まるのではないかと思う。
徳とは、儒教的な捉え方では「人間の道徳的卓越性を表し、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌・忠の実践として表される。(wikipediaより)」だそうです。まさしく、その通り。
では、一般論ではなく、日常生活の中で「仁」「義」「礼」「智」「信」を具体例から考えてみたいなと思う。
しつこいようだが、まだ続く。
頭で理解するのではなく、一般論として共感するのではなく、自分の事として「どう落とし込むか」「どこから変えていくのか」。こういうところで、応用性や想像性、そして具体性の無い人間は、そもそもダメであろうな。
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