臓器移植で助かる人が居るのであれば、どんどん移植すべし・・・記事。
ワシの親は、両方とも早くに亡くなっているのだが、角膜だけは今でもどこかで生きているはず(たぶん・・どうなんだろうな)。もう、母親は25年前、父親は21年前にくたばっているが、両方とも順天堂医院のアイバンクに登録してあったので、死亡後すぐに連絡をして眼球摘出。そういえば、当時臓器移植法なんて無かったな。・・・なんで、角膜移植だけOKだったのかな?
この辺は、変な達観をしていた記憶があるなぁ、昔から。親戚にも言われたけどね「なんで、身体を傷つけるのか」と。わし、冷たいのかな?(苦笑)
「どーせ」焼いちゃうなら他の人の人生に役立つなって、こんな素敵な事はないと思うんだわね。死んだ段階で、ある意味「たんなる」物体だしさ。我々残された家族には、記憶が残ればいいんであってね。弔いをきちっとやれば、死んだ側も、残った側も気持ちの整理はつくんじゃないかな。目を取っちゃったら、あの世に行って、目が見えないとかさ、妙な観念論はやめようやって感じなんだよね。
どこかで生きているなんて、そっちの方がなんか嬉しくないかなぁ・・・なんてね。もちろん、亡骸を傷つけるという事も事実だとは思うんだ。そして、家族として心理的に嫌な事であるのも理解は出来るけどね。
もちろん、うちは、ワシ、女房とも臓器移植カードには「全部つかってね」という形で「○」してある、はい。坊ちゃんにも、そのうち説明しておかないとな。他人には積極的に勧められるような事ではないけど、科学の時代に生きる身としては、真摯に考えることだと思うんだわさ。宗教観や死生観と相反することでもない限りね。
そう、自分がいつなんどき、逆の立場になるのかも判らんしさ・・・。助け合いだよ、究極のね。
myzkさん おひさです。
そう、難しいですね。なので、この手の話は絶対に押しつけられないなと感じます。議論さえするべきなのかどうかも悩むところ。でも、それぞれが現実問題として、きちっと自分自身、家族で考えたり話し合いはしたほうがいいなと思います。自分にふりかかったらどうするってレベルで。
web今晩にでも、九州に移動したら(笑)拝見しまーす。
投稿情報: ara3 | 2005年6 月20日 (月曜日) 09時22分
脳死、延命、安楽死など同様に献体や臓器提供なども難しいですね。宗教に対する概念の有無に限らず選択幅は狭いのに難しい。のほほんと生きておらずホントはもっと現実的に真摯に考えなければいけませんね。
ベイタウンに新しくできた動物病院のホームページ作らせてもらいました。お時間ある時にでも見てやってください。
http://btpc.jp/
投稿情報: myzk | 2005年6 月20日 (月曜日) 07時50分