東海道新幹線のウエッジ。日本人の八百万の神の宗教観と一神教の宗教観が文化論として書かれていた。
曖昧さを嫌う精神性は一神教とも関係あるんだなぁと納得。
教義を大事にすることは宗教として当たり前のことだと思うのだが、それを異教(笑)の他人との日常生活や仕事の中に持ち込んではいけないわね。
また、教義そのものを表立って日常で見せないにしろ、教義に則った生活で作られた感性を人に求めてはいかんわねぇ。往々にして「自分が正しい」というパターン多し。
確かに宗教感のしっかりしている人は教義や戒律で日常もしっかりしているわけだが、それを持ってして自分の価値判断が「必ず正しい」のかと言うことになると別問題。
自分だけが正しいわけではなく、相手も正しいというのが、本来の宗教の持つべき寛容の精神だと思うのだが。ここが難しいんだろうなぁ、一神教の人は。
また、宗教観のしっかりしている人は、内なる部分(潜在意識)にしっかりとしたモノを持つことになるので、表現が一足飛びになっていることも多い。本来、説法や説教を通じてかみ砕きながら展開するのが宗教の在るべき姿だと思うのだが、修行途中(?)の場合は、潜在意識から出てくる行動規範を突発的に出して、周りとの軋轢が起きる場合もある。あなたは正しいけど、ちょっと待ってよという状況。
心の問題だけに難しい。もしも仕事場において発生した場合はどうすれば良いのやら。
イチバン手っ取り早いのは、「会社に来たら鷲が教祖・神様」って言い切ることだろうけど、そんなメンタリティこそ鷲は持っていない。せいぜい、「会社では鷲が組長・親分」だな(笑)。
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