そもそも「エライ」という概念、もしくは視点とはなんぞや。
少々、狭い物言いだが「稼ぎがある=エライ」とした場合、稼ぎがあることがなぜエライのかを冷静に考えてみる必要があると思うのだが。
稼ぎがあると・・・経済的に余裕がある・・・贅沢はともかくとして、日々の暮らしの中で「慌てず」「下を向かず」に暮らせるのではないだろうか。やはり、人間たるモノ「穏やかに」「前を向いて」暮らしたいというのが基本的な欲求であろう。
このような環境を家庭にもたらせる事は、例えば「夫」が稼ぐ側だとしたら、妻に対して、子に対して「健やかな環境の1つの条件を提供する」ということで、その妻や子の人生に役立っているということであろうと思うのだが。これを僕は「エライ」と思うのである。
つまり、エライ人=役に立つ人ということである。役にも立たないで、偉そうにしているのは、タダの勘違いの大馬鹿野郎。
稼ぐとは何か。一般的には給料が高いことを表す事が多い。つまり、仕事の能力に対して会社や市場、社会から能力を認められている事。
しかし、ここで勘違いをしない方が良いのは、稼ぐ能力があるからエライのか?となると、場合によっては全然違う状況もある。給料が高いのに、経済観念が破綻していることから、実際の資金繰りがままならない。こういうのは、稼いでいるとは言えない。明細の総支給額や年収総額ではなく、実際に家庭にいれたキャッシュが「稼ぎ」の基準。
稼ぎとエライという概念から少し離れて「エライ」を考えてみたい。
相手から「エライ」と思われる為には何をしなくてはいけないか、そして何をしてはいけないのか。この辺は、実は品性などが大いに問われることだと思う。エライ=能力+人格であろうと考える。
ビジネスの場面での「能力」は、一般的には「稼ぎ」に現れる。その話は終わりにして、エライ人の人格を考えてみたい。
この話はまだ続く。
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